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自叙 5

何回かの受験を経て東京藝術大学にめでたく入学した。意外なことであるが、あれほど念願していた僕の思いは、それを手に入れた瞬間に急にしぼんでしまった。目標を失ったと言うところか。口では「オペラ歌手になる」と言いながら、それに向けて本格的な勉強が出来る環境にありながらちっとも真剣になっていなかった。その生活を一変させたのが、イタリア行きである。

1992年、武蔵野合唱団の海外演奏旅行で、その帰りにイタリアによって見ることにしたのだ。ブタペストからウイーンへ、そしてボローニャへ半日掛けて電車で移動。着いたのはもう夕方であった。しかし驚いた事が一つ。6時になっても7時になっても暗くなってこないのである。陽が長いのだ。お陰で迷わずホテルに到着する事ができた。近所の小さなトラットリアで、やたらしょっぱいリゾットを食べながら、明日から起こる事に大きく胸を膨らませていた。次の日、アリーゴポーラ先生を訪ねていった。東敦子先生から「絶対に教えてもらってきなさい」と薦められた先生である。どきどきしながらイタリア人への初めての電話、しかし聴きなれた言葉が片言ながら返ってくる。なんだろう、この安堵感。そう先生は日本語を話す事が出来たのだ。後から聞いたら日本語を話せるどころか、日本に10年間滞在してずっと僕らの先生の世代に当たる日本人生徒を教えていたらしい。何かぐっと親しみを覚えた。レッスン後、スタジオの上の階に住むご家族を紹介して頂く。当時イタリア語に慣れていなかったのだが、今思えば大歓迎だ。一生懸命話してくれて、娘や孫をその上の階から呼んでくれて紹介してくれて、イタリア風の大歓待に少々面食らった事を覚えている。でも、今に至るまで、ただマエストロが空の上に行ってしまっただけでそのほかは何も変わらない。ほんとうに、ほんとうに温かい家族であり、皆僕ら夫婦の事を「日本からオペラを学びに来た私達の息子と娘」と話しまくっているらしい。その証拠に、バールに行くと「SANOだろ。聞いてるよ(いったい何を聞いているのか)」と言ってコーヒー代を取らないし。肉屋はいつもおまけしてくれながら、「これで良い歌を聞かせてくれ」と言うし、ソファー修理屋さんでは「雨降りそうだからトラックで持ってってやるよ、SANOだろ?」と意味不明の確認をするし。いろんな意味でもうモデナから抜け出せない環境にいる。挙句の果てに、日本に帰ってしばらくいないと「どこに行っていたんだ?連絡もなしに。もう帰っちゃったのかと思ったぞ」となぜか怒り出す始末。今度新しいCDが出来たから、みんなに紹介しなくちゃ。隣の靴の修理屋はいつもおまけしてくれるからCDをプレゼントしたら「毎日君の声を聴きながら修理すると、実にはかどるんだよ」とか言ってくれます。でも僕は知っている。確かに僕のCDは聞いてくれているけど、一日の大半はパヴァロッティのCDを聴いている事を。でも武士の情けだ。黙っておこう。話を初レッスンに戻そう。先生の教え方はまさに奇跡のようだった。グループレッスンなので他人のレッスンも聞かなければいけないのが、その人の特質によって教え方が全く違うのである。太い、細い、強い、軽い、重いと、声にはいろんな特徴があるが、その持ち味がうまく伸びるような方向に伸ばすのである。まるで植木屋さんの盆栽の枝きりのように、実に手際よくやってくれる。僕は物覚えが悪いと言うか、納得するまで考え込むタイプだったので、先生は実に根気よく教えてくれた。今思えば亡くなる前に受けたレッスンの時まで仰っていた事は一緒だったような気がする。「凄く簡単に言えば、上あごに響かせろと言う事だった」でも、一回受けると格段に息の流れ、音の滑らかさが違う。それは今残っている当時の録音テープを聴いてみても明らかである。先生の門下生の声は、どんなホールで歌っても言葉がはっきり聞こえた。がなることなく、自然にホールの一番端まで響いた。そのコツの入り口ぐらいまでを垣間見る事が出来て、帰国の途に着いた。「もうこれはイタリアで勉強するしかない。そのためにも頑張ろう」と強く心に思った。まさにその日から、僕の意識改革が始まった。

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