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2009年02月 アーカイブ

2009年02月11日

Bacar・美味しいPIZZAを食べに沖縄に行こう!

みんなは柿沼さんと言う方をご存知だろうか?中目黒「聖林館」のオーナー、本物のナポリタイプのピザを東京で心ゆくまで味わいたいな是非食べに行くことをお勧めする。驚きの、本当に驚愕の味!その弟子が麻布十番でピザを焼いていたが、去年の11月、満を持して地元沖縄に釜を入れ火を起こし、彼は自分の城を作った。BACARと名づけられたこの要塞は、シェーキーズ文化の沖縄に確実に文化革命を起こしつつある。店のホームページから彼のブログに飛び、店が出来るまでの写真入記録を読んでいると、ああ、こうやって信じられない味とは出来上がっていくものなのだな、と改めて思い知らされる。イタリアにおいてピザは普段の味。あらゆるシチュエーションで楽しまれる「国民食」である。それだから携わる人すべてがお客を含めて味にはことのほか五月蝿い。職人の塩のさじ加減ひとつで味がまったく変わるのである。ピザ職人達はその職人芸を発揮するために理想の釜を求め、店を転々とし、粉をふるうのである。沖縄の、那覇のイタリアンスピリッツを持つ職人・仲村氏は、今日もピザを焼いて僕らを待っていてくれている。いや、実はお店に僕らが行きオーダーをしてからでないと焼いてくれないのだが。また焼きあがったピザをすぐ食べないでおしゃべりなんかしていると、すぐ表情が曇る。当然である。ピザは粉もの、温度感が勝負。特にピザはラーメンと一緒、熱々をつるつると掻き込んで、エスプレッソをくいっと流して、お勘定、と言う粋な世界である。ごめんなさい。長々と書きながら、どうしてもピザを食べたくなってきちゃった。5月まで我慢できるでしょうか???もうすぐイタリアに帰るけど実はイタリアでもあの味はなかなか食べられないのです。彼は、日本の宝です!

2009年02月16日

ディ・ステファノとの思い出

ポーラ先生と出会い、イタリアの勉強の仕方がようやくわかってきた頃、日本でコンクールを受けて優勝し(宝塚ベガホール)その副賞としてイタリアでのジュゼッペ・ディステファノの公開講座に参加する権利を頂きました。ディステファノはイタリアを代表するテノールで、日本の僕らぐらいの世代から上は「あおぞらに~しろいくも~たのしく~おせ~んたく~」の日立の青空洗濯機のコマーシャルソングを歌っていた人、オペラの世界でも世界中のオペラファンに愛され、すさまじいテクニックを持った演奏(50年代・シカゴでの録音グノー作曲≪ファウスト≫など)を残しました。晩年、居をアフリカに移し、弟子を取ったり解説者などすることもなく静かに暮らしていましたが、暴漢に襲われ重体、ミラノに戻って治療をしていましたが残念ながらお亡くなりになってしまいました。彼の伝説的な逸話としては、声の全盛期は10年間だけだった、と言われている事。まさに天才である彼は、細く長い人生より太く短い輝きを選んだのでしょう。後彼のナポリ民謡は、僕は誰よりも好きです。声の中に明るさと哀愁が同居しているのです。まるで明るい太陽の下で生活している南の人たちが常に心の奥底に貧困や悩みを抱えているような、そんな背反する2つを同居させている様子が彼の声から感じられます。そんな彼の公開講座を1992年の夏、古都アッシジで受けました。映画館などを使ったレッスン場はいつも熱気に満ち溢れていました。当時一番勉強を積んであった椿姫のアリアを毎日見ていただきました。レッスン途中で「お前、昨日は何を食べたんだ?」と聞かれ「ラグー(ひき肉ソース)パスタ」と答えると「だめだめ、パスタはな、ポモドーロだ」と愛国心丸出しで注意されました。レッスンは基本的な歌い方、正しいブレスの位置、ポルタメントのかけ方、などを教えてくださいました。彼は真の天才肌であるから教え方もさぞ直感的なんだろうな、と思っていたのですが、意外にも理論的で、全てメモを取っておく必要があるほど霊感に満ちたアドバイスだったのは殊に印象的でした。レッスンの最終日、小高い丘の上にある古い教会で修了コンサートを行った時、「佐野はトリ」と真っ先に言ってくださって、僕が歌う前にもわざわざお客様の前に立って僕について特別コメントをしてくださったことはいまだに忘れません。素晴らしいレッスンを終え、その後は1回もお会いしませんでしたが、レッスンの合間に喫茶店で隣に来てくださり、「お前は今どういう仕事をしているんだ?もし知り合いが居なければ俺が紹介してやろうか?」と本当に親身に話してくれた、マフィアのボスを感じさせるような包容力とその中にある優しく光った目はとても印象的でした。